卒園によせて、ぼくが書いた、「くろぐみだより」です。
紙で配布したものと同じ内容です。
せっかくなのでブログにも載せておきます。
よかったら、読んでみてください。
「多様であれ」
個性的な人、という言い方は、好きじゃない。
みんな違うんだから、誰だって「個性的」だ。
それに気づくかどうか。表に見えやすいかどうか。そんな差があるだけで。
我が家には3人、子どもがいる。
男ばかりで、やかましいことこの上ない。
それぞれみんな、個性が違う。
それほど違う育て方はしてないつもりなのに、こんだけ違う。
これはもう、しょうがない。
おれのせいじゃない!
生まれもったもんだから、仕方ない!
そう思って、納得することにした。
そう、生まれもったもの、身につけたもの、育まれたもの、すべて含めて、
世の中にはいろいろな人がいる。
これまでいろいろな生き物を飼ってきたが、例えばカナヘビでも魚でも、同じ種類の生き物を、顔だけで見分けるのはなかなか難しい。せいぜい模様や体の大小で見分けるくらいだ。
なのに、人間には、こんなにいろんな顔がある。
自分と同じ種の生き物だから見分けやすい、というだけではないくらい、明らかな違い。
かわいいーとかイケメンーとか言っちゃって
骨にしたらほとんどみんな一緒なのに
顔面に張りついた皮膚の形状で一喜一憂できる程度に、われわれは多様だ。
世の中にはいろいろな人がいる。
強い人、弱い人、なんて言い方もある。
しかし、誰だろうね、弱い人というのは?
弱肉強食、よく聞く言葉。
弱いものは強いものに淘汰されるのか?そんな運命か?
人も同じか?
弱いものは負け、強いものだけが勝つ、それがあるべき摂理か?
だが、実は「弱肉強食」というのは、とても狭い状況に限ること。
もちろん、トラとウサギを同じ檻に入れたら、トラはウサギを食うだろう。
では、この世界で、絶滅しそうなのは、トラか? ウサギか?
そう、「食うか食われるか?」だけで見たら、弱肉強食のようにも思えるが、生き物としては、ウサギのようによく繁殖し、敏感で素早く、逃げることに長けた種が、「その環境に最適応した性質の生き物」として、よりよく繁栄することは、珍しくない。
そして、自然の環境は、暑かったり寒かったり、水の中だったり木の上だったり、多様であって、だから、生き物は、多様な環境に対応した、ありとあらゆる性質のものたちがいる。
だから生き物の中に「絶対のナンバーワン」は、ひとりだって、いない。
誰だってわかる。ライオンとダイオウイカとバクテリア、どれがいちばん強い?なんて考えるのは無意味だと。
生き物は、単純な強弱ではない、もっと豊かな多様性を持っている。
そしてその環境の中で、「強きもの」が生き残るのではなく、「適したもの」が生き残るのだ。
人間は、ライオンより、トラより、ゴリラより、クマより、弱い。
ひとり裸でジャングルに置かれたら、死ぬ以外ない。それほど弱い。
「一人」という単位で見たら、人間はすべて弱者だ。
そんな私たち人間が、この世界で生き残るために、生物としてとった方法、戦略は、まず、「集団で生きていく」ということだ。
そして、その集団に、「あらゆる環境に適応できる可能性を増やす」こと、つまり「ひとりひとりの個性を、さらに多様にする」ことだ。
それぞれ違う個性を持った人間が集まって、社会をつくり、お互いが不足を補い、助け合うことで、今ある環境だけではなく、あらゆる環境に適応できる可能性(個性の多様さ)をできるだけ高くする。
それが、私たち人間の、生き残るための戦略だ。
だから、私たちは、みんな大きく異なる「個性」を持っている。
みんな違う顔で、違う声で、違う性格をして、違う能力を持っている。
その「違っていること」自体が、「人間という生物」の、「最善のあり方」なのだ。
つまり、「優秀な人」「強い人」というのも、これは「弱肉強食」と同様、とても狭い状況に限ることでしかない。
「今、ここ」に、たまたま適応できている、というだけで、違う環境においてはまったく不利かもしれないからだ。
世の中にはいろいろな人がいる。
生まれつき病気を持った人もいる。
障害を持った人もいる。
ナチスは、「優生学」(劣った遺伝子を後世に残さず、優秀な人間のみを増やすことで、社会や民族全体が優秀になる、という思想)を持ち出し、障害者や難病の患者を「生きるに値しない生命」として、殺した。
そしてドイツ民族(アーリア人)を最も優秀な民族にするため、その支障になるとして、ユダヤ人を虐殺し、絶滅を図った。
もちろんこのことは、人権的に許しがたい、愚かな行為だ。
ただ、人権的に、という意味でなくとも、生物的にも、愚かだ。
だって、遺伝子に、優秀も劣等もなく、それらの違いは「個性」でしかないからだ。
何度も書くが、「あらゆる環境に対応できる可能性(個性)を最大に幅広く残しておくために、助け合うこと」こそが、われわれ人間の、最善の選択であり、最大の武器だ。
ナチスの行いは、それに反した、愚かな行為だ。
生まれつき目が見えないことが、耳が聞こえないことが、ブサメンなことが、足が短いことが、太りやすいことが、禿げやすいことが、自閉的なことが、多動性が強いことが、どんな環境に対して有効なのか?
それは誰にもわからない。
これから自然界に、どのような環境の変化が起こるか、わからないからだ。
たとえば今、「障害」と呼ばれている個性も、未来の環境に対して、有効な性質となりえるかもしれない。
そうして、「想定できない可能性」にも対応できるよう、あらゆる個性・多様性を保護し、備えておくことが、われわれの生存戦略の、いわば保険なのだ。
私たちは、ひとりひとり違う。
その違いそのものが、最大の価値。
私たちは、助け合うことができる。
支えあうことこそが、最大の武器。
私たちは、「多様であれ」と蒔かれた種だ。
それは、「助け合い、生きろ」と、同じ意味。
誰もが、自分のままでいよう。ありのままでいい。
私たちは、個性豊かに、そして助け合って生きていくべき、そんな生き物。
あさひこ幼稚園で過ごした日々。
みんなは、自分をまったく否定されなかった。
そして、一緒に過ごして、遊んで、楽しんで、
いろいろな友達のことを、よく知った。
人の気持ちを考えることをした。
助け合うことを、当たり前にした。
それは、人間が、種として選択した「正解」だ。
「多様な個性を持った人間が集まって、お互いが助け合う」
もっともまっとうな、「生き物・人間」のありようだ。
世の中にはいろいろな人がいる。
じゃあ、どんな人がすてきな人なの?すばらしい人なの?
あえて挙げるとするなら、それは「助け合うことができる人」。
「自己を認め、他者を認め、お互いの違いを知っても、なお助け合える人」
自分も他人も否定しなくていい。
個性豊かであること、多様であることは、私たち人間、生命本来のあり方だ。
だから、自信を持っていい。
ありのまま、自分が自分であることに。
理屈はいらない、根拠もいらない、
どんな自分でも、自分が自分であるだけで、最高の価値だ!
躊躇なく、人を愛し、助ければいい。
どんな人とでも、助け合うことこそが、私たち人間、生存の最善の選択だ。
だから、自信を持っていい。
人の気持ちを考えることに。
人にやさしくあれることに。
たとえ強くなくても、やさしくあれることに!
私たち人間にとって、「ありのままの自分であること」は「優秀だと人に言われること」より、ずっと、価値のあることなんだ。
私たち人間にとって、「やさしくあること」は「強くあること」より、ずっと、価値のあることなんだ。
きみたちは、ここで、そうやって過ごしてきた。
これからもずっと、そう、生きていこう。
「最高の人間」なんて言葉は、必要ない。
全員、すでに最高だからだ。
ここにあるだけで最高だ。
どんな個性のあなたも、ありのままで、みんな、すばらしい。
それは、誰にも否定されない。
もし、これからの人生で、それが否定されてしまうようなことがあれば
いつでも、帰っておいで。
きみが、どれだけすばらしいか、きっと思い出す。
いつまでも、ここで、待っているよ。
卒園、おめでとう。
※執筆にあたっては、インターネットや本などいろいろな文献を参考にし、表現を一部引用しました。
科学的に正確な表現かどうかは専門外なのでわかりかねます。
「本当かな?」と興味を持ったら、ぜひ調べてみてください☆
「ともだちになるために」
作詞 新沢としひこ 作曲 中川ひろたか
ともだちに なるために
人は 出会うんだよ
どこの どんな人とも
きっと わかりあえるさ
ともだちに なるために
人は 出会うんだよ
同じような やさしさ
求めあって いるのさ
今まで出会った たくさんの
きみと きみと
きみと きみと
きみと きみと きみと
これから出会う たくさんの
きみと きみと
きみと きみと ともだち
ともだちに なるために
人は 出会うんだよ
ひとり さみしいことが
だれにでもあるから
ともだちに なるために
人は 出会うんだよ
だれかを きずつけても
幸せには ならない
今まで出会った たくさんの
きみと きみと
きみと きみと
きみと きみと きみと
これから出会う たくさんの
きみと きみと
きみと きみと ともだち