令和元年5月2日木曜日午前1時05分、前学園長・前々園長の牧原和男が永眠いたしました。
大正15年7月4日に生を受け、昭和、平成、そして令和元年を一日と1時間と5分過ごして、92歳と10カ月の幕を降ろしました。生前、父より伝えられていたとおり、ごく限られた家族葬にて、滞りなく、一連の葬送を終えることが出来ました。
それゆえ、生前お世話になりながらも、お知らせ、ご案内出来なかった皆様も多数おられることと思います。つきまはして私こと、学園長牧原東吾より、牧原和男の長男として父の永眠にいたる、平成31年4月23日から、令和元年5月3日までの11日間について、いささか長くなりますが、私の拙い歌を添えつつ、以下にお知らせさせていただきます。ご拝読いただければ幸いです。
平成31年4月23日火曜日、体調が急変。岡崎市民病院に入院しました。医師よりあとは如何に看取りをするかという段階ということで、26日金曜日には愛知病院へ転院しました。
平成31年4月23日(火)〜25日(木) 岡崎市民病院
呼吸不全。岡崎市民病院へ救急搬送、入院。検査。診察主治医より、「治癒の見込みなく、看取りをしていく段階」と伝えられました。
呼吸も楽になり、寝たり、覚めたりしていました。
目覚めた合間に、家族と目を合わせることもでき、一生懸命喋ろうとしますが充分に聞き取れないことも多く、申し訳なく感じました。そんな祖父の姿を見て、孫である園長が「指差し表」を作ってくれましたが、それを使える認知力もままなりませんでした。それでも手を握ると、しっかりと握り返してくれました。
「残された ひと息ずつに 思い出を 夢見て巡る 父の終日(いちにち)」
「旅立ちの 刻(とき)を間近に 感じてか 子の手を握る 父の万感」
平成31年4月26日(金) 〜29日(月) 岡崎市立愛知病院
がんセンターおよび看取りを専らとする、岡崎市立愛知病院へ転院。病院独特のせわしさは皆無、新緑に包まれたところです。
中庭には、あさひこ幼稚園児&名古屋芸大生&ホスピス研究会OKAZAKIのコラボ で制作したオブジェがあり、期せずして看取りの家族として癒される感慨がありました。
転院当初は家族の呼びかける声に、わずかながらもうなづき返してくれ 、うっすらと目を開けてくれましたが、やがてそれは片目をあけるのがやっととなりました。
「いまわにも 声に応えて うなづいて 心つないで 父と子である」
「うっすらと 開けた片目に 僕の顔 映ってますか? 覚えてますか?」
平成31年4月30日(火) 岡崎市立愛知病院 平成最後の日、あと1日で令和
このころの父は、ほぼ一日中、ひと息ひと息を味わうように吸いながら、心地よい眠りの中にいました。
思えばこの日は平成最後の日。偶然ではありますが、大正最後の年に生を受け、5か月後には昭和となり、今はあとわずか一日平成を全うすれば令和までの4つの時代を生きたことになります。
僕としては元号に特段のこだわりはなく、父もおそらくそうだろうと推察しますが、何はともあれここまで来たら、ついでに令和の空気も味わってもらいたいものだと思いました。
父、和男の名の上に令を冠すると、「令和男」になり、令和の男というのも面白いかもしれないなどと思いながら父のベッドの傍らで考えていました。
「大正に 生まれて昭和 父の日々 平成尽くして 令和は明日」
子ども時代から軍国主義の只中に育ち、大日本帝国陸軍より召集を受けるも出兵を待たずに敗戦を迎え、戦後の混乱の中、教育に新たな日本の再生を見いだした父は、県立高校の反骨の教師となりました。
全国区のニュースにもなった、強引な管理的教育で学校を支配しようとする校長と、生徒側が真っ向から対立する、いわゆる「岡崎高校フォークダンス事件(ユーチューブでも視聴できます)」でも生徒側につき、その後は出世には程遠いものとなったようです。
https://www.youtube.com/watch?v=siYuioBv0uE
本人曰く「ワシは出世など望まぬ故教頭にも校長にもなれんし、なりたくもない」。僕にはそんな父がかっこよく見えました。
事実僕自身、父が六十年安保のデモに出かけたり、ベトナム戦争が始まれば毎晩の食卓の話題であったりした記憶が鮮明です。
そしてそんな父はつい最近まで続き、ここ数年の間は安倍政権批判の止むことはありませんでした。
そんな父と母の教育に対する感性は、今もあさひこ幼稚園の奥深いところに息づいているものと思われます。
令和元年5月1日(水) 岡崎市立愛知病院
父は何とか令和の男となることが出来ました。
愛知病院の病室の窓からは、まぶしい新緑の木々を見ることが出来ますが、もちろん今の父にはかなわぬ景色です。
ただ見えずとも、きっと父にもこの自然の豊かさは届いているはずです。
「父は今 葉っぱのフレディ ひとひらの 風に吹かれて 旅立つを待ち」
令和元年5月2日(木) 午前1時5分 岡崎市立愛知病院
父、安らかに永眠。
合掌。
令和元年5月2日(木) 午後7時~ 通夜式 ティア岡崎南
通夜式、告別式、導師、四十九日までのおおよその日程、ご案内する方々の名簿に及ぶまで、あらかじめ生前の父自身から伝えられていたので、スムースに準備を整えることが出来ました。
ただご案内する方々については、厳密にごく近しい親族に限定されていましたので、なかには不愉快な思いを持たれた方がみえたとしても致し方ありませんが、これも父なりの配慮だとご承知、お許しいただければ幸いです。
「通夜の日の 縁者の涙 ありがたく ひ孫騒ぐも またありがたき」
通夜式の終わったあと、一人残された5日10日に94歳になる、なんとも言えない表情の母のことが心に引っかかりました。
当時としては稀な恋愛結婚、それもさまざまな因習、反対を押し切って一緒になり、一生を共にし、家庭においても、教育という使命においても、苦楽を共に過ごして来た父と母です。
僕も弟も子どもの頃から母に、
「好きになった相手と結ばれることは何よりも大切なことだよ」
と言われて育ったのは、裏を返せば、父と母のことであったということでした。
お陰様で牧原一家、皆仲良くやっております。
「父ロミオ 母ジュリエット その恋が 我ら家族の 満ちたる愛に」
令和元年5月3日(金) 午後1時~ 告別式、荼毘、初七日、ティア岡崎南、やすらぎ公園
通夜式と同じく、ごく近しい親族にご参列いただきました。
棺の中の父の表情は、ほんとうに安らかでした。
また通夜式、告別式、初七日と、その仏事をお願いしましたのは、真宗高田派西光寺住職、都築真海導師。彼とは兼ねてから縁があり、弟は小学校からの同級生であり、僕とは若い頃、今も続いている子どもを対象とした野外活動クラブ、やまびこキャンパーズクラブを作って来た同志(アンチン)であり、かつ彼の父と僕の父は刈谷高校時代の教員仲間。
そのお勤めは、誠に心こもるものであり、父の耳にも届いているに違いないとさえ思えるものでした。普通は導師様退場後の僕の喪主挨拶まで聞いていただきました。
そして棺へ別れの花を手向けたり、思い思いの品々を入れる最期のお別れの場面では、やはり生前の父の希望どおり、蒲郡あさひこ幼稚園副園長の、孫のKN子のピアノ演奏が心温まる空気を作ってくれました。
「ほんとうに よくぞ育てて くれました 受けた命に 文句無しです!」
その後、やすらぎ公園にて荼毘に付し、初七日も済ませて、仮祭壇を母の部屋に設置しました。
その折、本来なら仮祭壇にまつる一番大きな父の遺影を、母のベッドからいつでも見える壁にかけるように母に言われその通りにしました。
すると、通夜から今まで神妙な面持ちだった母の顔がパッと明るくなり、嬉しそうに笑い、なんと拍手をし始めました。思わず僕ら夫婦、弟夫婦も自然に笑顔になり、5人、いや父もふくめて6人の笑顔と拍手が満ちたのです。
「式を終え 父の遺影に 母拍手 今日一番の 笑みの溢れて」
この夜、母はもうひとつの父の遺影を抱いて寝たとのことです。
父和男の安らかなることを祈り、合掌。
(牧原東吾)