村積山で初日の出を見る会
村積山で初日の出を見る会のお知らせ
~園長の私的広告~
この会は特にあさひこ幼稚園の行事として組まれたものではなく、あくまでも園長の個人的な企画で、いつのまにか35年以上の間、雨の日も、雪の日も一度も休まずに続いています。
内容としては、1月1日夜明け前に幼稚園に集まり、懐中電灯の光を頼りに村積山に登ります。
山頂では焚き火を囲みながら夜明けを待ち、初日の出を拝んだ後は、龍渓院へ神々しい朝の陽に包まれて下山します。
龍渓院では到着早々本堂に入り、新春坐禅会に参加します。
その後ぜんざいをいただき、皆さんでその年の幸多かれことを祈念して解散となります。
例年参加する人は、園児、卒園生の家族、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人とさまざまです。
なかにはもう何年間も継続して参加していただいている家族もあります。
園児にとっては日ごろ園外保育で親しんでいる村積山です。
山に登ったり、坐禅をしたりと、いつもとはちょっと違ったお正月を迎えてみたい方は、下記のようにご案内いたしますので、どうぞご参加ください。
(園児でなくても、どなたでも参加できます)
期 日
平成25年1月1日 午前5時30分~
集 合
あさひこ幼稚園 駐車は第1または第2駐車場
(近隣の方のご迷惑にならないよう駐車してください。また夜明け前です。大きな声などを出さないように…)
内 容
幼稚園出発(5:50)⇒村積山頂上(6:40、日の出は7:05位)
⇒龍渓院(8:00新春坐禅会、その後ぜんざい)⇒解散(9:00過ぎ)
持ち物
デイパックの中へ、雨具、タオル、ティッシュ、救急薬品、水筒、ぜんざい用のおわんと箸、おやつなどを入れて、懐中電灯も忘れずに。
服 装
山歩きができ、防寒も考えたもの。靴は歩きやすいもの。
会 費
無料ですが、村積神社・龍渓院へのお賽銭、お布施を各自判断してお持ちください。
申 込
12月29日(土)までに以下の事項を記入して、FAXで申し込んでください。申し込みは口頭や幼稚園へではなく必ず以下のみに送ってくださるようお願いします。
記入事項
参加者名(全員)・電話番号・あればEメールアドレス
申し込み先
FAX 0564-58-7102
キリンの話 2
前回の続きの、キリンの話です。
さらに進んで話せば、これは現代でもはっきり解明されていないことを含むのですが…
「キリンは、いきなり登場する」のです。
進化論の基本は、ダーウィンによって考えられました。
「自然選択説」といって、生物が少しずつ変化して、その中で環境に最も適応する種が生き残る、というものです。
しかしこれは、現代の生物学では、全面的な支持を得ていません。
進化の過程というのは、生物の化石から証明されるのですが、実は、「進化の過程・移行期」の化石というのは、ほぼ見つかっていないのです。
つまり、キリンは、ある時期の地層から、いきなり首の長い化石で発掘されるのです。
同じく牛から進化したと言われているクジラも、羽のある昆虫も、翼竜も、鳥類も、「進化過程の移行型」は見つかっていません。
キリンの祖先が、高い木の葉を食べる!という生存競争の末、より長い首の個体が適応して進化していった、というのなら、中途半端な首の長さの生物が見つかってもいいはずじゃありませんか。アルパカみたいな。
でも、いないのです。
つまり、化石があらわす生物の進化は、「徐々に、じゃなくて、いきなり」だと仮定できるわけです。
考えてみれば、それはそうだ。
コウモリになる前の、少し翼がダブついただけで飛べないネズミがいたとしたら、そうでないネズミに比べ、どこが有利で生存競争に勝ち残ったのでしょう?
超音波を発する器官とそれを聞き取る耳は、それを発達させる前の途中段階があったとしたら、何の役にたっていたのでしょう?
ツチスガリという蜂は、子どものエサとしてゾウムシをしとめる際、ゾウムシの腹部にもぐって、肢のあいだのわずかな一ヶ所の隙間をねらって毒針を刺します。
この内部に神経節があり麻酔がうまくいくのですが、ちょうどよい深さで針を刺さないと、獲物は死んでしまい子どものエサにはならなくなります。
ツチスガリの先祖は、ゾウムシをめくらめっぽうな場所や深さに針を刺し、世代を重ねていくうちに、たまたま幸運な蜂がこのように精確に神経節を麻痺させる性質を獲得したのでしょうか?
そんなことをしていたら、生存競争の中ですぐに滅んでしまうのではないでしょうか?
オスのみにあるイッカクの角(犬歯が皮膚を突き破ったもの)は、キツツキの舌骨(舌が顎の下を通って後頭部を一周し、右の鼻孔を通過する、木の中の昆虫を捕食するのに適した構造)は、その形態を獲得するまで、どうやって自然選択を受けたのでしょう?
ぼくたち人間で言っても、「目」の網膜や虹彩など、どの一部も未完成であったら機能しないような複雑な器官は、どのように自然選択されてできあがっていったというのでしょう?
そう考えれば、こうした変化は、「いきなり変化した」、という結論に達することができます。
ゆっくりとした変化の途中で生存競争のふるいにはかけられていない、むしろ、いきなり変化したものが、その後に生存競争のふるいにかけられるのではないか、と考えられるのです。
何が言いたいかというと。
「生物はいきなり変化できる」のです。
キリンのようにです。
これは、なんという希望でしょうか。
僕らは、意志の力によって、いきなり変化することが可能であり、許されているのです。
この世の中は、複雑で、思うようにならないことや、希望を失ってしまうようなことがたくさんありますが、僕らの生命の力をなめてはいけません。
僕らは意志の力で、なりたいように、すぐにだって、変われる。
それは、生命の歴史からも、キリンからも、また、柔軟でしなやかな子どもの姿、感性からも、証明されていることではないでしょうか。
いろいろあります。
いろいろありますが、あきらめないように、生きていきましょうね。
★参考・引用
「今西錦司の世界」
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/Daw.html
ユウシ
さらに進んで話せば、これは現代でもはっきり解明されていないことを含むのですが…
「キリンは、いきなり登場する」のです。
進化論の基本は、ダーウィンによって考えられました。
「自然選択説」といって、生物が少しずつ変化して、その中で環境に最も適応する種が生き残る、というものです。
しかしこれは、現代の生物学では、全面的な支持を得ていません。
進化の過程というのは、生物の化石から証明されるのですが、実は、「進化の過程・移行期」の化石というのは、ほぼ見つかっていないのです。
つまり、キリンは、ある時期の地層から、いきなり首の長い化石で発掘されるのです。
同じく牛から進化したと言われているクジラも、羽のある昆虫も、翼竜も、鳥類も、「進化過程の移行型」は見つかっていません。
キリンの祖先が、高い木の葉を食べる!という生存競争の末、より長い首の個体が適応して進化していった、というのなら、中途半端な首の長さの生物が見つかってもいいはずじゃありませんか。アルパカみたいな。
でも、いないのです。
つまり、化石があらわす生物の進化は、「徐々に、じゃなくて、いきなり」だと仮定できるわけです。
考えてみれば、それはそうだ。
コウモリになる前の、少し翼がダブついただけで飛べないネズミがいたとしたら、そうでないネズミに比べ、どこが有利で生存競争に勝ち残ったのでしょう?
超音波を発する器官とそれを聞き取る耳は、それを発達させる前の途中段階があったとしたら、何の役にたっていたのでしょう?
ツチスガリという蜂は、子どものエサとしてゾウムシをしとめる際、ゾウムシの腹部にもぐって、肢のあいだのわずかな一ヶ所の隙間をねらって毒針を刺します。
この内部に神経節があり麻酔がうまくいくのですが、ちょうどよい深さで針を刺さないと、獲物は死んでしまい子どものエサにはならなくなります。
ツチスガリの先祖は、ゾウムシをめくらめっぽうな場所や深さに針を刺し、世代を重ねていくうちに、たまたま幸運な蜂がこのように精確に神経節を麻痺させる性質を獲得したのでしょうか?
そんなことをしていたら、生存競争の中ですぐに滅んでしまうのではないでしょうか?
オスのみにあるイッカクの角(犬歯が皮膚を突き破ったもの)は、キツツキの舌骨(舌が顎の下を通って後頭部を一周し、右の鼻孔を通過する、木の中の昆虫を捕食するのに適した構造)は、その形態を獲得するまで、どうやって自然選択を受けたのでしょう?
ぼくたち人間で言っても、「目」の網膜や虹彩など、どの一部も未完成であったら機能しないような複雑な器官は、どのように自然選択されてできあがっていったというのでしょう?
そう考えれば、こうした変化は、「いきなり変化した」、という結論に達することができます。
ゆっくりとした変化の途中で生存競争のふるいにはかけられていない、むしろ、いきなり変化したものが、その後に生存競争のふるいにかけられるのではないか、と考えられるのです。
何が言いたいかというと。
「生物はいきなり変化できる」のです。
キリンのようにです。
これは、なんという希望でしょうか。
僕らは、意志の力によって、いきなり変化することが可能であり、許されているのです。
この世の中は、複雑で、思うようにならないことや、希望を失ってしまうようなことがたくさんありますが、僕らの生命の力をなめてはいけません。
僕らは意志の力で、なりたいように、すぐにだって、変われる。
それは、生命の歴史からも、キリンからも、また、柔軟でしなやかな子どもの姿、感性からも、証明されていることではないでしょうか。
いろいろあります。
いろいろありますが、あきらめないように、生きていきましょうね。
★参考・引用
「今西錦司の世界」
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/Daw.html
ユウシ
キリンの話
以前、ファミリーキャンプの寒い夜に、火を囲みながらお話しさせてもらった「キリンの話」。
まあ、山の夜の与太話だったんですが、案外評判が良かったので?ちょっとネタを追加して文章にさせていただきます。
「キリンの話」
バカみたいに思われるかもしれませんが。
ぼくは、人間は「なりたいようになれる」のだと、思っています。
正確に言うと、「信じています」。
あきらめなければ、と。
つらくなったりあきらめそうになったりいろいろあるときは、僕はキリンのことを考えます
キリンは、鯨偶蹄目に所属する、いわゆる牛の仲間。
キリンはなんて鳴くか、知ってますか?
「モー」です。
ざっくり言うと、キリンは牛から進化しました。
あるとき。
「あー、あの高いとこの葉っぱ食いてぇー!!」
と思った牛がいたのです。
「あの高いとこの葉っぱ食えたらなぁ、そしたら食いもん困んねーのになぁ!」
キリンの長い首にある頸骨(けいこつ)の数は7個。
これは人間や牛と同じです。ほとんどの哺乳類が同じ。
高いとこの葉っぱが食いたい!
きっと、サバンナで飢えそうなキリンの先祖が、強い意志で、そう思った。
それで、キリンの首は、「本当に」、あんなに伸びたのです。
だから。
なりたいと思ったように、なれる。
意志の力は、何より強い。
それは、あんなにわかりやすく、僕たちに示されているじゃないですか。
だから、思い続けることです。
意志を、意思を、持ち続けることです。
例えば、なりたい肉体をイメージして筋トレするのと、何も考えずに筋トレするのでは、筋肉のつき方が変わってくる、というのも、科学的事実としてわかってきました。
そう、人間は、なりたいようになれるのです。
生き物は、命は、そういう「機能」を持っています。
これは本当のことなのです。
キリンを見たことがあるでしょう?
だから、「どんなことに対してでも」。
「無理だよ」 と
意志を捨てるのが、思いを捨てるのが、あきらめてしまうのが、
いちばんバカらしいことです。
それがいちばん、科学的じゃない、やり方です。
ぼくたちの命は、ヤワじゃありません。
ぼくたちは、なりたいものになれる。
意志を信じることです。
「自分を信じること」です。
あさひこ幼稚園では、そう感じることのできる人間を、育てたい、と思っています。
なりたいように、なりたい自分に、なれますよ。
…というわけで、とりあえず、僕としては、まずダイエットをはじめてみようと思います…大学生のときから15キロほど太ったこの体を…
さて、僕は自分で自分の話を証明できるでしょうか?
…キリンのことを考えよう。
つづく。
ユウシ
まあ、山の夜の与太話だったんですが、案外評判が良かったので?ちょっとネタを追加して文章にさせていただきます。
「キリンの話」
バカみたいに思われるかもしれませんが。
ぼくは、人間は「なりたいようになれる」のだと、思っています。
正確に言うと、「信じています」。
あきらめなければ、と。
つらくなったりあきらめそうになったりいろいろあるときは、僕はキリンのことを考えます
キリンは、鯨偶蹄目に所属する、いわゆる牛の仲間。
キリンはなんて鳴くか、知ってますか?
「モー」です。
ざっくり言うと、キリンは牛から進化しました。
あるとき。
「あー、あの高いとこの葉っぱ食いてぇー!!」
と思った牛がいたのです。
「あの高いとこの葉っぱ食えたらなぁ、そしたら食いもん困んねーのになぁ!」
キリンの長い首にある頸骨(けいこつ)の数は7個。
これは人間や牛と同じです。ほとんどの哺乳類が同じ。
高いとこの葉っぱが食いたい!
きっと、サバンナで飢えそうなキリンの先祖が、強い意志で、そう思った。
それで、キリンの首は、「本当に」、あんなに伸びたのです。
だから。
なりたいと思ったように、なれる。
意志の力は、何より強い。
それは、あんなにわかりやすく、僕たちに示されているじゃないですか。
だから、思い続けることです。
意志を、意思を、持ち続けることです。
例えば、なりたい肉体をイメージして筋トレするのと、何も考えずに筋トレするのでは、筋肉のつき方が変わってくる、というのも、科学的事実としてわかってきました。
そう、人間は、なりたいようになれるのです。
生き物は、命は、そういう「機能」を持っています。
これは本当のことなのです。
キリンを見たことがあるでしょう?
だから、「どんなことに対してでも」。
「無理だよ」 と
意志を捨てるのが、思いを捨てるのが、あきらめてしまうのが、
いちばんバカらしいことです。
それがいちばん、科学的じゃない、やり方です。
ぼくたちの命は、ヤワじゃありません。
ぼくたちは、なりたいものになれる。
意志を信じることです。
「自分を信じること」です。
あさひこ幼稚園では、そう感じることのできる人間を、育てたい、と思っています。
なりたいように、なりたい自分に、なれますよ。
…というわけで、とりあえず、僕としては、まずダイエットをはじめてみようと思います…大学生のときから15キロほど太ったこの体を…
さて、僕は自分で自分の話を証明できるでしょうか?
…キリンのことを考えよう。
つづく。
ユウシ
鏡
個別懇談の時期ですね。
懇談の報告を聞いていると、こどもの園での姿と家庭での姿って、ずいぶん違うものなんだろうなぁ、とつくづく思います。
めちゃめちゃ自分を出してる子のお母さんが
「うちの子、幼稚園で全然自分が出せてないと思うんですけれど…」
とかそんな話を聞くと、ええ?いったいうちではどんな様子なんだろ??と、逆に気になってしまいます。
幼稚園でがんばっている分、おうちでは甘えたりわがまま言ったりしたい。
そうなのかな、なんて思っています。
幼稚園とはいえ、こどもにとっては真剣で本気な「公」で、「社会」ですからね。
どうあれ、お子さんの園での様子は、先生たちがお伝えしているとおりです。
嘘をお伝えしても仕方ないですから。
上記のように、ご家庭から見れば「ええ??ホントに??」と思ってしまうようなこともあるかもしれませんが
…本当なんです。
それと、これはこうやって書いていいかどうか迷ったんですけども…
「心配しすぎですよ!(*´∀`)ノ」
と思ってしまうことも。
もちろん、大切なお子さんを心配する気持ちは僕にもわかります。
でも、心配しすぎて、お母さんが「心配顔」をしていると、
こどもは、よけい不安になってしまうんですね。
子は母の鏡です。
母と子の笑顔の数は、同じです。
裏腹に、不安の数もまた同じです。
心を映し合っているから、子育てには喜びも、不安も同居しています。
そのことを「納得」することから、子育ては始まると言ってもいいかもしれませんね。
だから、心配や、不安なことがあったら、どうぞ幼稚園までお尋ねください。
直接、単刀直入に!
担任ではお答えできないようなことも、僕や、園長、主任も、いつでもお話を伺います!
お気軽にどうぞ。
指名できますから、好きな人を指名してください!
お母さんやお父さんが不安を抱えたままでは、こどもがのびのび大きくなれません。
心配されっぱなしじゃ、こどもは大きくなれないのです。
いつでも、みなさんの声をお待ちしていますからね!
ユウシ
懇談の報告を聞いていると、こどもの園での姿と家庭での姿って、ずいぶん違うものなんだろうなぁ、とつくづく思います。
めちゃめちゃ自分を出してる子のお母さんが
「うちの子、幼稚園で全然自分が出せてないと思うんですけれど…」
とかそんな話を聞くと、ええ?いったいうちではどんな様子なんだろ??と、逆に気になってしまいます。
幼稚園でがんばっている分、おうちでは甘えたりわがまま言ったりしたい。
そうなのかな、なんて思っています。
幼稚園とはいえ、こどもにとっては真剣で本気な「公」で、「社会」ですからね。
どうあれ、お子さんの園での様子は、先生たちがお伝えしているとおりです。
嘘をお伝えしても仕方ないですから。
上記のように、ご家庭から見れば「ええ??ホントに??」と思ってしまうようなこともあるかもしれませんが
…本当なんです。
それと、これはこうやって書いていいかどうか迷ったんですけども…
「心配しすぎですよ!(*´∀`)ノ」
と思ってしまうことも。
もちろん、大切なお子さんを心配する気持ちは僕にもわかります。
でも、心配しすぎて、お母さんが「心配顔」をしていると、
こどもは、よけい不安になってしまうんですね。
子は母の鏡です。
母と子の笑顔の数は、同じです。
裏腹に、不安の数もまた同じです。
心を映し合っているから、子育てには喜びも、不安も同居しています。
そのことを「納得」することから、子育ては始まると言ってもいいかもしれませんね。
だから、心配や、不安なことがあったら、どうぞ幼稚園までお尋ねください。
直接、単刀直入に!
担任ではお答えできないようなことも、僕や、園長、主任も、いつでもお話を伺います!
お気軽にどうぞ。
指名できますから、好きな人を指名してください!
お母さんやお父さんが不安を抱えたままでは、こどもがのびのび大きくなれません。
心配されっぱなしじゃ、こどもは大きくなれないのです。
いつでも、みなさんの声をお待ちしていますからね!
ユウシ